長沢背稜から雲取山

岡田真也


期  日 平成11(1999)年9月23日(木)〜25日(土)
メンバー 岡田 真也

9/23 晴後曇後雨
 家1225-アップルマートで買い物-1240保谷1247-1257秋津-本屋-1305新秋津1315-1324西国分寺1325-1330立川1340-1459奥多摩1535-1556東日原1615-ヨコズス尾根20:00-一杯水(CS)

 22日の集会、養老の瀧の帰りにコンビニで買い出し。集会で山行のこともありあまり呑まなかったので思わず買ったばかりのフォアローゼスを呑んでしまう。

 翌朝、本当は4時頃起きるはずが大寝坊。起床は10時を大きく回っていた。青空である。あれこれと用を済ませて家を出たのは12:25。途中で酒や昼食などを買い足し西武線に。

 奥多摩で西東京バスで時刻表をもらい、バスを30分少々待つ。懐かしの立ち喰い蕎麦を食べる。予定では川苔から入ろうと思っていたがヨコズス尾根から入り、天気が良かったら酉谷泊まりにしようと変更。

 東日原に着いたのは16時頃。バスの運転手殿から雲取なんて言ってないで舞茸を取りに行けと勧められる。杉玉の下がる酒屋でフィルムを買い、バス停の厠でキジを撃って出発。稜線は雲に隠れて見えない。急登で一汗かく。薄暮の頃高校生くらいの2人組が元気良く下ってくるのに出会う。ここから雲取山荘まで人には出会わなかった。

 夕暮れとともに霧に囲まれる。夜の霧はたちが悪い。ヘッ電の光は乱反射し足下がかろうじて確認できる程度しか視界が利かない。鹿の声や猿の警戒を発するきぃきぃ言う声を聞きながらただ足下を見て歩く。1本道の尾根で迷いそうなところもないのでペースは落ちるが小屋までだと思ってゆっくりゆっくりと歩く。

 小広くなっていて張れそうだなと思うところをすぎると道が尾根を巻くようになる。立派な桟道もあるので歩いて行くが沢音が近づき、猿の声も聞かれなくなる。これはおかしいと思うまでに十数分、なぜおかしいと思わなかったのか非常に不思議である。なぜか全身に鳥肌が立ち、煙草に火をつける。地図を確認するとこんなに下るところはあるわけがない。一杯水までは一直線の尾根である。作業用の道に入ってしまったらしい。億劫だが仕方がない。登り返す。登りはだるさも手伝い先程の小広い所まで30分弱を要する。尾根に戻り、また一服。2.5万の地図がないとやはり不便である。勘では後10分ちょっとくらいで避難小屋のはずである。(前回来た20年前はまだ避難小屋は存在しなかったが)歩き出して数分、雨音はだんだん強くなり、木の葉の天井からぼちぼち雨粒が落ちるようになってきて雨具が必要になってきた。雨具を出すくらいなら張ってしまえ、時計は20:00丁度を指していることだし、と幕営。

 なんと東日原から4時間近くもかかってしまった。天気が良かったら月明かりで酉谷小屋まで行く予定だったのが、何とも情けない。天幕を張っていると再び毛が3本足りない方々が騒ぎ始める。石でも投げられるとイヤなので、何もしないでただ寝るだけだから勘弁してくれと心の底から思う。これが結構効果的で、周囲にしばらく気配があったが、何事もなく静かな一夜を過ごせる。ジフィーズの牛飯(こればっか)を胃に流し込み、バーボン200ccほどを軽く引っかけ、21:00前には寝る。

9/24 晴後曇後雨
(CS)0535-0610ハナト岩0620-0650ゴンバ尾根分岐-0717矢岳分岐0730-0750酉谷峠0805-0953水松山下10:10-10:46長沢山10:58-11:30桂谷の頭11:45-13:10芋木のドッケ-13:55大ダワ14:05-15:20雲取避難小屋(泊)

 朝、早寝だったせいもあり4時過ぎに目を覚ます。しばらくまどろんだ後おもむろに起き出し、ゆっくり茶を飲みジフィーズ中華丼を食す。若干雲は出ているが星はよく見える。

 朝焼けを見ながら撤収。雲取の避難小屋もすいているだろうからと、のんびり楽しみながら歩くことを心がける。出発して斜面をひと登りするとすぐ、案の定避難小屋があった。以前の地形はうろ覚えだがこんな広いところがあっただろうかと不思議に思う。小屋の内外を見学して出発。薪のストーブもある広いこぎれいな木造の小屋であった。

 程なくハナト岩。縦走路から突き出すようにでた岩の上から南側ほぼ180度の展望を楽しむ。20年前もここで休み、岩の上から小キジを撃って気持ちよかったのを思い出す。今回は写真を撮って一服のみ。

 冬眠前で、雨が良く降るせいもあってか縦走路にたびたび大きな蛙がびとんびとん歩いている。危うく踏みつぶしそうになることもあり危険。しばらく針葉樹の植林があるが奥秩父主脈縦走路に似た雰囲気の道。道の両脇にクマザサがあるのは相変わらずだが、道の部分はよく踏まれていて、以前来たときに半分藪こぎのような状態だったのとは違って大変に歩きやすい。

 作られてしばらく経っているような桟道も各所にあり、非常にいい道になっている。道標も要所にあり、迷うような所は一切ないと言っても良い。よく見たら新しい道標には昭和56年設置と書いてあった。ということは前回来てからすぐに大幅な整備の手が入ったと言うことだろうか。道標の長沢背稜を消して天目尾根と執拗に書き直してあるのがあって見苦しい。よほど長沢背稜という名称が気にくわない御仁が居るらしい。矢岳へ→という板が打ち付けてあるところを過ぎ、しばらく歩くと谷側の斜面を大慌て(のように見えた)で駆け下っていく若い鹿に出会う。吃驚させてしまって申し訳ない。

 すぐに酉谷避難小屋に着く。もう昔の酉谷小屋を知っている人は少ないと思うが通路の両側に丸太敷きの床のイメージとはかけ離れた立派な丸木小屋(というより駅前のビジターセンターの小型版;ログハウスと言うべきか)である。南面に大きな窓があり展望が素晴らしい小屋である。表札にはでかでかと東京都の銀杏マーク。立派なのはいいが東京都財政難で職員給与まで減らそうと言うときに
酉谷小屋
酉谷小屋
利用頻度のそう高くないこんな所に金をかけて立派な小屋を造る必要があるのだろうか?小屋は嬉しいが私の給料が減った分で作られたと思うと泊まらずにいられない気になる。冬枯れの頃泊まりに来よう。

 小屋前の水場で水を補給。一服し、写真を撮って出発。ブナ、カエデ、樺、等紅葉の時期に来たら素晴らしそう。平坦な道と緩やかな登りを繰り返しながら徐々に高度を上げる。道が尾根の北面につく部分は苔が美しい。水松(アララギ)、長沢と非常に気分のいい尾根歩きをするうちに完全な曇りとなり風が強くなってくる。
 桂谷の頭を越えるあたりから倒木が多くなるが、倒木は切ってあったり、越えるのが面倒そうな所はうまく巻く踏跡がついていたりして歩きにくくはない。このころから雨が降り出す。雨具をつけ、ひと登りで芋木のドッケ。ここまで来れば銀座通りのような物である

 。旧雲取ヒュッテは山荘工事の飯場になっており、水場には歯ブラシと歯磨きが、破れた窓や壁にはビニールで処置がしてあり中にはタオルやシャツが干してあった。ここまで人にはあっていない。すぐに山荘の工事現場。ブリーフケースを抱えて真新しい雨具を着た人に出会う。これが本日初めてあった人間。工事は30日までということで大雨の中作業している。新井の親父さんらしき人も見える。クレーンなども動いていてヘリで持ち上げたのかななどと思う。新山荘は非常にでかい立派な建物に驚く。昔日の面影はない。ひと登りで山頂。

 明日の好天を期待して避難小屋に泊まる。ここも12〜3年振りの泊まりで、新しく立派になった小屋に泊まるのは初めてである。先客は3人。小屋につくなりさっさと寝る準備をし、バーボンを水筒から直接呑む。さきイカなどつまみながら着干しする。さきイカがなくなるころから18時頃まで昼寝。目を覚まし、マカロニを食う。パスタ類は手軽でいいのだが水を多く使うのが難点。こういう場合は水を少なくして炊くようにして使うといい。味は若干落ちるが貴重な水にはかえられない。同宿の人に長沢背稜を勧め、ぼちぼち呑んでほぼ酒が底をついた21時頃就寝。

9/26 晴
避難小屋05:00-5:20奥多摩小屋5:40-05:49ブナ坂-06:27堂所06:35-07:29車道07:40-07:57鴨沢バス停08:10-08:45奥多摩駅8:53-立川-保谷-11:30自宅

 気分良く4時30頃目覚める。東京方面の夜景がきれいである。鴨沢までゆっくり歩いて3時間とみてお茶を飲み、レーションを少々食べて下ることにする。

 奥多摩小屋のところで急に催し、雲古をする。富士山がとてもきれ
奥多摩小屋附近にて しゃがんで撮影(?)
いに見えて大変気分の良いキジうちであった。気分のいいところで一服を繰り返し下る。一軒目の家が崩れて斜面下に落ちていたのには吃驚した。畑も放棄されている。少し寂しい。この辺で初めて登ってくる人間に出会う。御歳を召した方ばかりである。

 のんびりと順調に鴨沢着。気持ちいいくらいに予定通り、ほぼ丁度8時。時間が早すぎてビールが買えないのが残念。予定通り8時10分のバスに乗り奥多摩へ。駅前で骨董市みたいなのがやっていて星飛雄馬がピッチングしている弁当箱を思わず買いそうになるがかろうじて思いとどまり、すぐに来た電車に乗る。駅の売店が消滅していてビールが飲めなかった。仕方がないので家の近所の薬局(!)でビールを買って帰る。約束通り、午前中に家につくことができた。

 長沢背稜は20年前、初めてのテント泊の単独行で来た山で、非常に思い入れが深いところである。設備、道ともに非常に良くなっていたが風景は当時と変わらず、のんびり歩いたためにいろいろなことを考え、感じることのできた有意義な山行であった。